俺をなんとかしてくれ。

「お金がない」「仕事がうまくいかない」「人間関係で悩んでいる」といった様々なことが相談に寄せられる。そのなかに、時折「この自分をなんとかしてくれ」という相談が混じっている。
 「苦しくて何をしたらいいのかわからない」という相談と同じようだが、少し違う。「何をしたらいいのか」という相談は、立ち止まっている状態だ。今の状態をなんとか打開するために、よい考えが浮かばない、もしくは手段が見つからない、または手段があるのは分かっているのだが、チャレンジする勇気がわかない、といったような状態だ。
 このような場合には、手段や考えを一緒に考える、不安を和らげるという目標がたてられる。答えは自分自身が持っているので、そのことに気づいてもらうだけで済む場合も多い。
 「俺をなんとかしてくれ」というのは、このままでは何をするか自分自身でもわからない。俺を止めてくれ、何をするのか決めてくれ、という状態だ。自分が考えるのも決めることもできないので、何とかして欲しいという訳だ。中には自分自身で責任を負うことに耐えられなくて、このようなことを言う、つまり、相談を受ける側に自分の行動の責任を負わせようという意図が見え隠れする場合もある。

もちろん、責任転嫁だけの話ではない。ひとことで言えば、ブレーキが機能しなくなっている状態である。

 ひとつめ。はじめからブレーキがない場合。生理的なもの、先天的なもので、例えば、自閉症のパニックやホルモン等のバランスにより食欲が増進するような場合である。多くの場合、周囲の配慮や環境調整が必要となる。
 ふたつめ。ブレーキが壊れてしまった場合。代表的なのは、アルコールや薬物の依存、ギャンブルや買い物等のプロセス依存などがある。この場合は、ブレーキを直すか、ブレーキを使わなくてもいい状態にする、つまりアクセルを踏まないようにする支援が必要となる。
 みっつめ。ブレーキの使い方が分からない場合。児童虐待などの経験がある場合には、そもそもブレーキの使い方を教えてもらっていなかったり、間違ったことを教えてもらっていたりする。また、自分のこだわりや固執により、ブレーキをかけることを忘れてしまっている場合もある。この場合には、教習所の指導教官よろしく、助手席に乗って指導的に支援するか、ブレーキの存在に気付いてもらう算段をする。
 
 アクセルを踏んだままの本人を周囲が止めようとすれば、アクセルを踏んだまま、ブレーキをするようなものだから、そこには異常な熱が発生し、機構そのものが壊れてしまう。本人と周囲の関係は悪くなるか、最悪、壊れてしまう。それよりも、ブレーキの存在に気付いてもらい、本人がブレーキを踏めるようになれば、周囲も本人も楽である。

 目指すのは「本人がブレーキを踏む」ことである。