産業化(その2)

 産業化は、生産力の向上を目指す。「誰でも」「確実に」「同じ」物をだ。

 社会保障改革は、限られた対象を福祉の対象者とするのではなく、全ての国民にリスクがあるのだから、福祉事業をサービスとして位置づけたことだ。介護保険制度は、高齢化社会を向かえるために、その財源と担い手が確実に不足することから導入された制度である。財源は、保険という新たな財源で手当てし、そしてサービスには、営利企業の参入をを許し、多様な供給源を用意した。
 そしてその全てがうまく回るように「ケアマネジメント」を導入した。制度化される前までは、英米の「ケアマネジメント」「ケースマネジメント」などと似たような方法論が盛んに議論されたが、結局「ケアマネジメント」に落ち着いた。
 方法論として語られていた時には、購入すべきサービスのみならず、ボランティアや家族や地域の住民などのサービスではない担い手を「インフォーマルサービス」として位置づけるよう要請されていたが、フタを開けてみればそのほとんどが、サービスの導入を前提としたプランになっていた。ケアマネジメントの導入に尽力した専門家達は、このような現状を嘆き、ケアマネジメントは矮小化された、本来の姿を取り戻すべきだという議論を盛んに行ったが、今の今まで根本的な問題は解決されておらず、結局は保険給付を減らし、「地域包括ケア」という新たな概念を持ち出すこととなった。
 ケアマネジメントが介護保険以外のサービスも含めた諸々の支援までケアプランとして位置づけるのであれば、理想を言えば、介護保険法にケアマネジメントを位置づけるのではなく、他の国家資格と同様に、別に法律を作る方が自然であった。ケアマネジメントをする者は介護保険法に基づき仕事をし、介護保険法によって報酬を得る。よって、介護保険が中心になる。もし、ケアマネジメントを、あらゆる制度を使うこととして法律に位置づけているのであれば、特に強調しなくても介護保険のサービスだけにはならなかったと思う。
 また、マネジメントという概念は「経営」の下位概念である。
ケアマネジメントには、2つの「マネジメント」が組みこまれている。1つはサービスを使う「個人」に対するサービス(理想的には人生ということらしいが、そんなことはとても現実的ではないと思う。)のマネジメント、そしてサービスという限られた「資源」のマネジメントだ。つまり、本人が望むサービスを提供できるようにし、かつ効率的にサービスを供給すること、ということなのである。
 そんなことは本当に可能なのか?
次は「産業化」の視点から、このことを検討してみたい。