記録 記憶 物語 そして孤独

 福祉や医療には記録が必要不可欠とされている。福祉ではケース記録や日報、医療ではカルテ、そしてどのような仕事でも様々な台帳の整備を求められる。

 実務的に言えば、記録は仕事の報酬を得るための成果物である。福祉や医療は、農業や工業などとは違い、製品や作物という成果物で評価はされない。仕事の性質上、人を必ず幸せにすることはできないし、その義務もない。治療の結果、病気や怪我が100%治るという保障をする必要もないし、それを求めてしまえば仕事として成立しない。報酬は、成功報酬であってはならず(最近はそうとも言えない部分が出てきたが)、個人の幸せという目標に向かって誠実に努力することの証拠を示して、プロセスを評価してもらう。記録を元に仕事の結果は点数化され、レセプトとして請求されることになる。
 いわば、仕事の成果物は「記録」だ。
 要求されるのは、「客観的に」「正確に」だ。「主観的に」「情緒的に」ではない。また、つまらなくても、同じことの繰り返しでも継続しなければならない。興味のあること、特別なことだけを書いても分析には不十分だ。
 「記録」(Recoad)は後の分析に耐えるものでなければならない。日々の仕事の中で、どんな問題が生じて、それにどんな対処をしたか、またどのようなプロセスを踏んだか、を検討し、次の仕事に生かすためだ。飛行機のフライトレコーダーのようなものだ。記録は、記録した本人のためのものではない。評価をする他人のために書くものである。この「他人」には記録した本人も含まれる。記録に残した時点で、それは自分の手を離れるからだ。だから後から読んでも、分かりやすく、共通の言語で書かなければならない。
 記録には、記録を書いた本人が経験したこと全てが書かれるわけではない。感情や心の動きまでは記録されない。嫌だと思ってもそれを記録に残すことは出来ない。それは困難さや失敗として記録される。心理傾向や感情の測定、コンディションの管理など、特別な意図を持った分析でなければ、記録として成立しない。
 本人のために書くものは、それは例えば日記だ。記録は記憶に残るものではない。記述を手がかりに事実を写しだすものだ。本人のために書くもの、それは個人の経験や感情や想いがこもった「記憶」(Memory)に他ならない。人が脳に記憶を上書きしていく。また、後から記憶を修正し、現在の自分の存在を肯定していく(否定するメカニズムが発動すれば、それは自殺だ)。日記のように記憶を残すことは、その時その時の自分を際立たせる。 

  以前、精神分析のトレーニングを受けた方に勧められたトレーニング(まるで修行のようだが)は、自分の面接を一字一句書き起こし、それを後に検討する方法だった。記録のようだがそれは自分の記憶を呼び覚ます。しゃべり方や言葉の使い方がどのようになされているか、自分の姿勢や態度が相手にどのように影響したか、を検討するには確かに有効だった。この方法をもっと発展させると、ボイスレコーダーやビデオでの記録になる。そこにはカルテや日誌にはない、聴覚や視覚に感受された人の感情や感覚が記録されている。焦りや不安や喜び、時には怒りも記録され、当時の自分を呼び起こす。ボイスレコーダーで記録した自分の声に愕然としたことがある。受容的に接していたつもりだったのに、その声は極めて攻撃的だった。
 このような記録は、記録ではなく、記憶だ。
 なぜならそれは、自分のためだからだ。記録を書くのは孤独な作業だ。それは自分のためではなく、だからそこに自分はなく、他人のためだからだ。そして、他人のためだからこそ、報酬がもらえるのである。
 しかし、人は物語を作る。記憶を紡ぎ、今「自分がここにいる」意義、そしてこれからどこに向かうのかを連続して語る。記録を読むのは、内なる他者であるが、物語は、今ここにいる自分が作り、そして構成していくものだ。
 例え、他人に評価されずとも、自分の存在というもっと根源的な必要性があるからだ。
小説、エッセイ、詩、音楽、絵画、造形・・・うまくいけば、自分の存在が、他者の存在をも呼び起こし肯定することになる。
 そのような技術は途方もなく習得が難しい。が、だからこそ取り組む価値があるのではないだろうか。