貧困と時間

 NHK甲府放送局の山岳カメラマン米山悟氏がNHKのエコチャンネルのブログで、「昔の人は、なぜ不便な山村に暮らしていたのか?」という記事を執筆されている。ちょっと前によく言われていた限界集落という視点ではなく、「山村は生き延びることができるところだった」という切り口は、なるほど確かにそうだという説得力があって、ものの見方が確かに変わった。とても面白いので是非一読をおすすめするが、山裾は天然資源が平野部よりも豊富にあり、身一つで住み着いてもお金に頼らずに生きていける場所だ、というのだ。土木技術が発展するまでは、日本の平野はおそらく度重なる河川の氾濫による湿地帯だったろうし、伝染病を媒介する昆虫なども今より多かったのだろう。山裾の方が豊かだった可能性は十分にある。
 そんな山裾が現代で不便になるのは、毎日時間で働かなければならない人が多いからだ。決められた時間に出勤し、決められた時間までは仕事をしなければならない。そうしないと労働の対価は受け取れない。
 自分の必要な物を自然から産み出して生きていく生き方であれば、少なくとも時間にしばられることはない。自然が相手なので確実に予定通りの成果が得られるとは限らないし、とても楽ではないだろう。
 でも、大切なのは費やした時間よりも自分が働いて作り上げた成果・結果の方だ。そう考えると時間という縛りがない山裾の生活は不便ではない。むしろ、自分が生きていく中心になる。
 現代の貧困は、働く時間が十分にとれないことから生じる。子育て、介護、病気、障害など・・決められた時間を働くことが出来ないので、収入が少なくなる。結果、生きていくのに必要な物を手にすることが困難になる。
 かっての山裾の暮らしでは時間は自分のものだ。働いた結果が生きていく糧になる。時間よりも結果を出す工夫があれば、決められた時間働けなくても生きていくことはできるかもしれない。(しかし、おそらく経済からは外れた生活になっていくだろう。)
 今のこの世の中の仕組みで時間に縛られず仕事ができる人たちは、社会が評価する才能を持つ人たちだけだ。そうではない多くの人たちが生きていくために必要なのは働く時間だ。だから、山裾ではなく平野に住む。移動に時間はかけられない。

 だからといって、山裾に住もうというのは・・・
 だからこそ、山裾が教えてくれるのは、

 「時は金なり」

 という現実だ。