衝動コレクション

 「衝動的な行動」と専門職が評価した場合、何か「衝動的」と言われただけで分かったような気になるかもしれないが、衝動的になるのは結果であって、その要因は様々である。

1)生理的欲求・・あれが欲しい、今すぐ手にいれないともう手に入らないかもしれない
2)不安や恐れ・・これからどうなるのだろう、いても立ってもいられない
3)こだわり・・これでなければいけない。絶対。離れない
4)嗜癖・・いわゆる依存症、中毒と呼ばれるもの、1)+2)+3)=4)である。
5)薬物の作用・・あらゆる神経系に作用する薬など。合法的なもの、非合法なもの、色々ある。
6)不明

これに次の評価軸が必要になる。

1)時間・・本人が考えている(感じている)時間の感覚は妥当か?(冷静になってみると、急がなくても良かったのに、ということはないか?)
2)容量・・本人の理解力、忍耐力、持久力(体力)はどの程度あるのか?
3)能力・・相手に伝える力、相手を理解する力、選択する力、決断する力 の程度は?
4)障害・・病気や障害等の衝動を強める生物的要因はあるのか?
5)環境・・本人の理解者・友人・家族、生活費の確保、生活の安定 など
6)その他

 特に1)は惑わされやすい。「大変だ!」と駆け込まれてくるわけだから、相談を受ける方もすぐに対応しなければならない気になってしまう。しかし、冷静に考えて欲しい。一刻を争うような事態が生じた時に、それを解決できるほどの権限を持っている人がどのぐらいいるのだろうか?本当に24時間対応してくれるのは、消防・救急・警察(それとコンビニ?)ぐらいのものである。
 相手の話を良く聞くことは大切だが、聞いた上で、それをどうとらえるか、をきちんと検討する時間が必要だ。「話を聞く」ということは、「相手がこう言っているから」とイコールではない。「相手がこう言っている」のは「どうしてなのか?」、本人の立っているところからはよく見えないから、「大変だ」と言っているかもしれないが、段ボール一箱分上から眺めることで、全体像が見え、「それほど大変ではない」ことがわかる場合もある。
 「こう言っているから」というのは、責任をとるつもりのない態度である。いってみれば、ただのスルーパス
 受け止めるのであれば、「それはこういうことですか?」「これは試してみましたか?」というような会話がなされるわけだから、「本人はこう言っているけれども、話し合ったら、こんな感じではないでしょうか」という雰囲気になる。
 
 「衝動的な行動」の対応の時には、その専門職がスルーパスをしているのか、きちんと受け止めているか、がよくわかる。
そのような時には、専門職にきちんと説明を求めて欲しい。たぶん、色々なことがわかるから。

環境と負荷

 最近「年をとったなあ」としみじみ思ったことがある。こうして人は老いていくのだと。
 体力や筋力の衰え・・疲れがとれないことや「あれ、なんだったけ?」という経験は、本人が自覚できることであり、まあ、そんなもんかと、思える。
 ここ数年、毎週末に個人的に趣味でやっていることがあって、今年は新たにもうひとつ始めた。それもまったく新しいことではなく、以前やっていたことを復活させたのである。
 たまたま今月は、今までやっていたことと、新たに始めたことを1週おきに交替でやることになった。ひとつであった時には、準備にそれほど時間もかからず、さっさと支度を済ますことが出来た。新たに始めたことでもそれほど負担には感じなかった。
 しかし、である。違うことを1週おきにやると、「あれ用意したっけ?」「これも必要だった」などと、手間取ることが多く、結局1時間で済むところを3倍近くもかかってしまった。それに何より頭が疲れてしまい、めんどくさくなって、肝心のやる気が追い付かなくなる。
 これは要するに環境適応能力(様々な変化に対応する力)が衰えてきたってことだと思う。おそらくルーチンワークであればこれまでの経験から、効率的な手順や方法を駆使して衰えをカバーすることができるのだろうが、新たな手順が加わると、一から組み立てねばならない。それが実に大変なのである。新しいことを学習し実行する能力はあっても、それを遂行するだけのエネルギーが限られてしまっている。結論としては、めんどくさいが新しいこともやりたいのでこれも訓練だと思って、新たなことも続けることにした。
 日本で家を新築で建てることは、経済力が必要だ。一通りのことが終わって、定年近くの年になったり、親のからだが大変なのでバリアフリーにという理由で、住宅を新築することがある。
 しかし、経験的にどうもそれはマズイ気がする。年をとると環境適応能力は、他の能力と同様に低下する。新築の家は誰でも嬉しいから気持ち的には晴れ晴れとしているが、新たな環境に慣れるためにはけっこうなエネルギーを要する。「住み慣れた」場所のいい所は、新たな事態が生じても住まいの環境には慣れているので、新たな事態に対応できる余力はあることだ。新築では、新たな環境に馴染むために力を使った上で、さらに新たな事態に対応するだけの力がさらに必要となる。これはけっこう大変なことだ。
 おまけにモデルハウスや広告では、大きくて広々とした家を理想の家のイメージとする。家政婦さんを雇えるような経済力があるならともかく、本当に必要な家はコンパクトで自分の環境適応能力の範囲に収まる家だと思う。広ければ広いほど、掃除の手間も管理の手間も必要になるし、おまけに室内の移動時間が長くなる。住むだけで大変だ。(家は広い方が、住宅の供給側は儲かりますが・・)家は大きなものなので、洋服のように試着は出来ない。結果、図面やイメージでしか実物を把握する術はない。自分の経験が通用するようなデザインなら良いが、雰囲気が良いからとなんとなく選んでしまえば、実はなんだかしっくりこないということもありうる。好きなデザインが自分に似合うとは限らないのだ。
 新築になってしばらくしてから、どこか家族がギクシャクしたり、病気をしたり元気がなくなったりするのは、環境の変化も一因ではないか、と思う。バリアフリーにするよりも、古い馴染んだものの方がいいこともある。
 環境を変えるなら、若いうちに。

貧困と時間

 NHK甲府放送局の山岳カメラマン米山悟氏がNHKのエコチャンネルのブログで、「昔の人は、なぜ不便な山村に暮らしていたのか?」という記事を執筆されている。ちょっと前によく言われていた限界集落という視点ではなく、「山村は生き延びることができるところだった」という切り口は、なるほど確かにそうだという説得力があって、ものの見方が確かに変わった。とても面白いので是非一読をおすすめするが、山裾は天然資源が平野部よりも豊富にあり、身一つで住み着いてもお金に頼らずに生きていける場所だ、というのだ。土木技術が発展するまでは、日本の平野はおそらく度重なる河川の氾濫による湿地帯だったろうし、伝染病を媒介する昆虫なども今より多かったのだろう。山裾の方が豊かだった可能性は十分にある。
 そんな山裾が現代で不便になるのは、毎日時間で働かなければならない人が多いからだ。決められた時間に出勤し、決められた時間までは仕事をしなければならない。そうしないと労働の対価は受け取れない。
 自分の必要な物を自然から産み出して生きていく生き方であれば、少なくとも時間にしばられることはない。自然が相手なので確実に予定通りの成果が得られるとは限らないし、とても楽ではないだろう。
 でも、大切なのは費やした時間よりも自分が働いて作り上げた成果・結果の方だ。そう考えると時間という縛りがない山裾の生活は不便ではない。むしろ、自分が生きていく中心になる。
 現代の貧困は、働く時間が十分にとれないことから生じる。子育て、介護、病気、障害など・・決められた時間を働くことが出来ないので、収入が少なくなる。結果、生きていくのに必要な物を手にすることが困難になる。
 かっての山裾の暮らしでは時間は自分のものだ。働いた結果が生きていく糧になる。時間よりも結果を出す工夫があれば、決められた時間働けなくても生きていくことはできるかもしれない。(しかし、おそらく経済からは外れた生活になっていくだろう。)
 今のこの世の中の仕組みで時間に縛られず仕事ができる人たちは、社会が評価する才能を持つ人たちだけだ。そうではない多くの人たちが生きていくために必要なのは働く時間だ。だから、山裾ではなく平野に住む。移動に時間はかけられない。

 だからといって、山裾に住もうというのは・・・
 だからこそ、山裾が教えてくれるのは、

 「時は金なり」

 という現実だ。


 

ジュースと人権

 買い物を頼まれる。いつも同じ物をそろえ、いつも同じ物を食べ、そして同じ日常を送りたい人がいる。しかし、今はそれもなかなか許してくれない。気に入った物を買い続けたいと思っても商品の開発競争は激しく、定番商品にならなければあっという間になくなってしまう。前より便利な機能がつきましたとはいうのものの慣れ親しんだ操作は少しずつ代わり、たまにしか使わない機能のためにこれまで覚えてきたことは役にたたなくなる。同じ日常を送りたい人にはストレスな毎日だ。
 ある日、いつものジュースを買いに行った。そのジュースは売り切れで、往復で30分かかるスーパーにはそのジュースはあるかもしれない。でも、他の物は頼まれた通りに買えたし、30分もかかれば余計な時間がかかってしまう。今日は暑いから買わないというのも困るだろうから、似たこのジュースを買っていくことにする。
 届けると、しかしこれが気に入らない。今日はどうしてもいつものジュースが飲みたい。なんでこんなものを買ってきたのか、ちゃんと買ってきてくれ・・・と言われてしまった。自分で買いに行ってもらいたいところだが、出来ないから頼まれている。さて、困った・・・
 「人権」が大切だと言う人たちはよもやこんなことで困るとは思いもしないだろうが、現場はこのような些細なことで悩む。人には権利がある。健常者であれば、自分で判断して買いに行くことができるだろうが、それが出来ないから困っているのだ。選択の自由を保障しなければならない。福祉を学べば必ず人権の大切さを学ぶ。決断しなければならない場面で、頭のどこかを教えがよぎる。
 最も楽な答えは、こうだ。こだわりがある人はこういうことも想定して、あらかじめ長めに時間を確保して計画しておく。時間に余裕があれば、本人が満足できるサービスが提供できるし、売り上げも伸びる。こちらも悩まなくても済む。「本人らしい生活」も保障できる。ケアマネに頼んで時間を伸ばしてもらおう。措置じゃなくて契約なのだから。
 私の最近の答えは、こうだ。世の中、ジュース1本のために30分も時間をかけることはノーマルな考えではない。人生にとって、大切なのは欲しいジュースを1本買うことではなくて、欲しいジュースがなかった時にどのように折り合いをつけて、納得できるかという知恵だ。ここは多少ぶつかっても、ジュースは次にしてもらうことが大切だ。今日はそれで時間がかかるかもしれないが、次にこのような本人が予測できない事態があった時に代替案を選択してもらえるかもしれない。同じジュースがいつまでも売っているとは限らないから。
余計なお節介?上から目線?人権?・・・いえいえ。合理的な配慮ですから。
 
 

産業化(その3)社会福祉の光と影

 手元に福祉業界のメジャーな業界紙「月刊福祉」(全社協)がある。2015年6月号の特集記事は社会福祉基礎構造改革から15年ー社会福祉の光と影、であり、厚生省の在職当時に社会福祉基礎構造改革を推し進めたという、日本で一番大きな社会福祉法人の理事長炭谷茂氏のてい談が掲載されており、しかも社会福祉の光と影というからには、影をどんなふうに話すのか大変興味があったので、熟読させていただいた。
 要は「人権の確立」のために「措置」から「契約」へ改革をおこなった(光)が、「権利の保障」はまだまだだ(影)ということらしい。詳細は読んでいただきたいのだが、「社会福祉の専門家が社会福祉の改革を行う」理念や情熱とはこういうものなのだ、ということは理解できた。
 しかし、どうやら私とは視点が違うようだ。
 私は、社会福祉基礎構造改革の「光」は「サービスの量が圧倒的に増えた」ことだと思う。介護保険がなかったら、障害者総合支援法がなかったら、ここまでサービスは増えなかった。ここ10年のサービスの増え方は戦後最大である。全国どこでも同じようにサービスを、というスローガンの元、あたかもコンビニや大手フランチャイズによる全国展開のように、世間を賑わしたコムスンのような大手の事業所も現れるほど、次々に福祉関係の事業所が立ち上がった。また、次々に福祉の専門職を養成する学校が出来、福祉の担い手も人権や弱者に敏感な、どこかナイーブな変わり者ばかりではなく、どこにでもいるような若者が福祉に従事するようになり、特殊な世界ではなくなった。
 それと同時に、自分の腕を信じ、意地と誇りを持って仕事をする職人気質で「背中を見て覚えろ」というタイプの職員は今や絶滅寸前で、プレゼンテーションがうまく、マニュアルに沿って仕事をするコンサルタント的な職員が増えてきた。
 地方の都市や街が、かって賑わいをみせていた商店街が廃れシャッター街となり、どこに行っても同じようなチェーン店が立ち並び、便利で必要なものは一通り揃うけど、どこかつまらなくなったように、福祉も、サービスはあるけれど・・どこか物足りない、というような風景が当たり前になった。
 私はこれが、社会福祉基礎構造改革の影であると思う。
 つまり、福祉事業は、産業となったのだ。

 「措置」から「契約」へは、人権の確立にどこまで寄与したのか?

 措置時代からヘルパーを利用する方は言う。来るヘルパーは変わらないのに、書く書類は増える。昔はついでに頼めたことも、これは出来ない、あれは出来ないと言われる。いったい、私は何か悪いことをしたのか?
 障害者の人が就労支援施設で働きたいと言う。例え、週に1日、2日しか働かなくても、アルバイトやパートのように、履歴書を用意して面接を受けて、明日から来てくださいね、とは言われない。例外なしに身上調査のような聞き取りをされ、実習をし、会議をして、それでも行けるのかどうなのか・・まるで会社の就職試験だ。どうして、普通のパートのように働かせてもらえないのか?

 「措置」だろうが「契約」だろうが、行政がお金を出すとはそういうことだ。 

アルコールに依存する(その3)

 そもそもアルコールは、合法的な薬物だからどんなに飲んでも、成人であれば問題にはならない。飲むことで、社会生活がうまくいかなくなったり、体を壊したり、アルコールを常に飲まないといられなくなる場合にはじめて問題になる。悩みや心配ごとがあって、お酒を飲み気分転換を図ることには何の問題もないのだが、悩みや心配ごとにより、いわゆるうつ病と診断される状態の人が薬の代わりにお酒を使うと、問題になる場合がある。これが3つ目のタイプだ。
 飲酒の習慣からアルコール依存症になって、その結果うつ的な気分の落ち込みを経験する場合と、うつ病が先にあってアルコール依存症になる場合は、結果は同じでもプロセスが違っているので、支援する側のアプローチが違ってくる。
 繰り返しになるが、身体依存性が形成されてしまえば、依存症の治療が優先になることは言うまでもないが、うつ病が先にある場合は、その原因に対するアプローチがなされなければ飲酒は止まらない。このような、お酒を薬の代わりに使用する人の多くは精神科の治療に抵抗があり、なかなか専門医を受診しない。もし、受診したとしても依存症と診断されたり、薬の処方だけで終わってしまうと、自分のこの悩みは結局分かってもらえない、と医療機関への不信感が強くなる。(逆に、そう状態で万能感を持った人が、その状態を維持する、もしくはもっと上げようと追求する場合もあるが、その場合は本人はいい状態だと思っているのでもっと医療につながりにくい。発達障害の人たちに近い)
 うつ病と言っても、これといって理由がはっきりしない場合もあるが、仕事や家庭、あるいは金銭面での悩みが具体的に解決できれば、アルコールなどの薬物に頼らなくても生活を建て直していくことができる人たちもいる。このような人たちの多くは、精神科の治療を中断することが多いので、中断した後のことを専門家は把握することが難しいが、世の中の具体的な問題を解決することによりこころの問題が解決することは多い。こんなことは当たり前のことだが、医療機関や相談機関は大変な時にしか関わらない(関われない)ので、当たり前のことが見えにくい立場にある。むしろ家族やその周囲の人たちの方が、理解しやすいかもしれない。
 考えていきたいのは、昼間から酒を飲んで何もしないからといって、アルコール依存症だとかアル中だとか判断してしまうのではなく、どうしてその人がお酒を飲むのか、ということから入っていかないと治療も支援もうまくいかないということだ。
 「どうしてお酒を飲むのか」を丁寧にたどっていくと、家族であってもよく理解していなかったり、誤解があったり、無関心や無視という姿勢に気がつく。そして本人が「孤独」であることが分かってくる。
 アルコール依存症の治療には、本人の「底付き感」が必要であるとすれば、支援者に必要なのは「理解と関心」である。

アルコールに依存する(その2)

 アルコール依存症の人は、なにかを忘れるために酒に走ることが多い。が、ある日出会った人は、お酒を飲むと頭の回転が速くなり、感覚が鋭くなると言っていた。自分はお酒を飲めば目をつぶって車が運転できると言う。どこに障害物があって、どこに他の車があるのか分かると言うのだ。耳が聞こえなくても運転はできるが、さすがに見えなければ運転は不可能だと思う。最近、レーダーで障害物を感知して自動でブレーキをかける車が発売されたり、自動運転ができる車が開発中と聞くが、それでも目を閉じて運転できる車などない。
 同じ頃、アルコール依存症ではないテンションの高くなった別の人が「目をつむっても自分は障害物を避けて歩ける」と言い出した。自分は目の前にあるものを感じて避けられると言う。まるでコウモリや深海に棲む生物のようだ。実際にやってみせると聞かないのでやってみてもらったところ、歩き出したらすぐにつまずき、盛大な音を立てて机と椅子にぶつかって転んでしまった。後で確認したところ、目をつぶって車を運転できると言った人も、結構な自損事故を起こして車を廃車にしていた。
 相談が進み、後日わかったのは、2人とも発達障害という診断があり、共通して感覚過敏があったということだ。これは憶測でしかないが、テンションが高くなると聴覚が研ぎ澄まされ、小さい音にも敏感に反応する。その音をまるで超音波のように皮膚で感じとれると感じたのではないだろうか。
 アルコール依存症の人は、アルコールで、もう一人の人は、おそらく精神薬の過剰な投与によって通常よりも感覚が過敏になったと自分は考えている。
 確かにアルコールの身体依存性が形成されれば、アルコール依存症なのだが、自分がアルコール依存症の専門病棟でお世話になった患者さん達とはまるで雰囲気が違う。自分の課題や問題を変に隠したりしないし、むしろどこが悪いのかを追求しようとする姿勢があった。身体がアルコールを欲しがってしまうとは言うが、相談の内容はアルコールというより、課題の解決のための現実的で具体的な手段の検討であった。まったく否認はない。意思の弱さというよりは、頑固さやこだわり、融通の効かなさの方が目立つのである。もっと感覚的に言えば、アルコール依存症の人に感じる退廃のにおいがない。本人もそれを感じていて、自分は確かにアルコール依存症だから主治医に言われてAAに参加しているのだが、どうも自分はこの人達と違うと思うと言い出した。確かにこちらもそう思うので、「発達障害ではないか」という見立てが一致したので、そこからの相談はいかに主治医に発達障害を認めてもらうか、という作戦会議になっていった。ちなみに本人は発達障害を認めてもらってからは、アルコールとも縁を切ることができた。
 その後も、アルコールの問題で相談を受けても、どうも依存症というより背景に発達障害があって、そちらの治療を優先した方がうまくいくのではないかと思える事例にいくつも出会ってきた。そして、そのような人達は根本的な課題が解決するとAAのような自助グループに頼らずとも、自然とアルコールから離れることが出来た。
 死んでしまうのではないかと思うほど、お酒に溺れていてもすっぱり辞めることが出来た人もいる。もちろん、アルコールの身体依存性が形成されてしまえば、専門的な治療は必要だ。が、一見アルコール依存症に見えても、発達障害特有の課題がある場合には、発達障害の治療を優先するだけでアルコールの問題が自然と消滅する人達がいるのも確かだ。アルコール問題の相談を進める上では、このことは検討しておかねばならないと思う。(続く)